というわけで、柚日小説をひとつ。ブログにそのまま書きます。
誕生日関係無いし、「こんな感じの書いてみよう」ってだけでオチもあれなんですけど、と、とにかくゆのたん記念。 忘れないでください。 この先どんなことがあっても、すべてがあなたの敵に回っても、わたしだけはあなたの味方。 わたしはいつもあなたのことを思っているわ。 ■■I think of you. 柚木は彼らしくもない現実逃避で、二年前に記憶の螺旋を巻き戻している。そうでもなければ今繰り広げられている愁嘆場を直視できそうもない。 再生される声はやわらかく、耳触りの良い少女のそれで、哀しみを堪えるように浮かべられた微笑と、彼自身の背に回った細い腕の体温さえ、昨日のことのように思い出せた。 少女―――日野香穂子と柚木が別れたのは、柚木が大学二年生のとき、彼が二十歳で相手が十八の年だった。 香穂子が大学に入学し、年を越したあたりで柚木の家に再びの騒動が起きた。 しかも今度は親戚が経営をしている会社が傾きかけ、取引先の銀行から資金援助を断られ、いよいよまずいと柚木家に支援を願い出てきたという、柚木からしてみれば尻ぬぐいでしかない馬鹿馬鹿しい理由である。負債はかなりの額で、それなりのメリットが無ければ切り捨ててもおかしくない状況であった。 実際、柚木は親や祖母は否定意見を出すのではないか、と見ていたが、話は突然妙な方向へ転がる。 『杜屋の会社のことなのだけれど』 大学からの帰り、香穂子と待ち合わせで小さなコンサートへ足を運び、やや浮かれた気分で戻ってきた日のこと。祖母に突然呼び出され、すわお小言か、と半分構えつつも、この頃は既に開き直りがあって、何か言われても言い返してやろうと彼女の部屋についていった。(その時に気が付くべきだった。祖母が自室に孫を連れ込むなんて非常事態だったのだ。) 『融資をする、という話が出ています』 『何処ですか、その……、物好きは』 直截な言い様に、だが祖母は相変わらずの鉄面皮で、鈍桜色の唇が横文字の社名を告げて、柚木の厭な予感はさらに深くなった。聞いたことのある一部上場の株式会社だった。母体は老舗の呉服店で、古くは徳川の御代にまで遡るほどの家柄、近世、政略結婚で華族を名乗り、戦後はいち早く看板を英名に変えて今も成長を続けている会社だ。 『相手先のメリットは?今の杜屋を買い取ろうが、後ろから支えようが、あまり利益があがるとは思いませんが』 自分であれば絶対しない、とは流石に続けなかったが、指を顎に添わせて考え込むと、祖母が小さく溜息を吐いた。 『我々です』 『…は、』 『相手の目的は杜屋ではありません。後ろに控えた柚木の家と、縁を繋ごうというのですよ、梓馬さん』 梓馬、と呼ばわられた己の名が、ひたすらに重く響く。 柚木は居住まいを正した。勧められた座布団を脇にしたまま、背を伸ばし真っ直ぐに祖母を見る。かつての危機の際、倒れたそのひとは、改めて眺めれば酷く小さく見えた。事実、女性ならではの堅実さと、周囲が驚くような大胆さを兼ね備えた気質は、最近とみに前者ばかりが目立つようになっている。全権に近い部分を親の代に譲り、奥に退いていると言っても過言ではない。 (「……だが、」) この老獪で、誰よりも柚木の家を愛する女が、鶴にも天にも勝る声を今だ持ち続けているのも、また事実。 『お祖母様、はっきり仰ってください』 『あなたには婚約をしてもらいます』 それは宣言だった。依頼でも命令ですらない、既に決定したことを伝える口ぶりで祖母は言った。昔、柚木が香穂子によく強いた遣り様とあまりにもよく似ていた。 『お断りします』 『梓馬さん、あなたに否やはありません』 『僕はもう、子どもではありません。自分が結婚するひとは自分で決めます』 『日野香穂子さん』 『……っ』 唐突に祖母が呟いた恋人の名を捉え損ね、柚木は目を瞠った。高圧的な物言いの癖に、老女の面には痛ましそうな風が滲んでいる。何てことだ、と柚木は思った。これは演技だろうか、それとも、まさか本気で。香穂子のことは祖母もよく知っている。二人が付き合っていることは大学へ入学してから家族に伝えた。こそこそ隠れて付き合うのは厭だったし、邪魔だてすれば自分にも考えがあるのだと暗に臭わせる意味もあった。 『先週、通われている学校へ出向いて直接お逢いしました。いいお嬢さんね』 頬に弱々しい影をつくる睫毛は長く、すっかりと白い。この家において、お互いだけが似通っている者同士と知っている二人は、そこで漸く目を合わせた。祖母の双眸に決然と定められた意志を見、柚木は唇を引き結ぶ。鏡で映したように、同じ顔をしているに違いなかった。 『あなたと別れることも、理解してくれました。余程、』 その先、祖母が何を言ったのかなど、興味は無かった。ばっと立ち上がり、障子を勢いよく開いて駆け出す。よく磨かれた檜の廊下をはしたなくも音をたてて走るなんて、一体何年ぶりだろうか。そういえば、開いた障子は閉めずにそのままだった。どうでもいい、すべてが、どうでもよかった。 あなたと別れることも、理解してくれました。 『――――これだけは、忘れないで。』 妙なことを、と思ったのだ。 コンサートが終わった後の帰り際、夜も更けたというのに桟橋まで出たいと彼女は言った。お前は本当に物好きだね、と言うと、誰かさんと大して変わらないわ、と返事があった。 『可愛くないな』 『これでも努力しているつもりですけど』 くすくす笑う斜め横の顔はどうしたって可愛らしく見える。いや、可愛らしい、という表現は適当ではないのかもしれない。やや癖のある赤みのある髪が頬を覆い、その稜線や、さらに先に続く身体つきは出逢った頃に比べて、大人の女のそれになった。 彼女は大学に入った柚木が高校時代よろしく、ちやほやされるだろうと僅かな悋気(柚木にしてみれば嬉しい嫉妬だ、)を見せていたが、余程、こちらの方が心配である。本人が無意識なだけに質が悪いのは昔と変わらず、年を経てうつくしくなった所為で威力は倍増しである。 ライトアップされた氷川丸を目印に、潮風を遮っていたビル群から公園へ二人は歩いた。繋いだ手をコートのポケットに入れる、だなんて、数年前の自分が見たら呆然としそうな格好で、しかもわざわざ手袋を外しているあたり愚の骨頂である。確かに恋というやつは、正気ではいられないものだと実感する。 『ねえ、先輩』 どんなに直させても下の名前を呼べない彼女は、柚木に手を預けたまま、前だけを見て、言った。船か、あるいは黒々と波打つ海を見ていたのだ、と柚木は思っていた。まばらに立つ街灯しか頼りのない闇の中で、表情を悟らせないためにそうしていたのだと、気付きもせずに。 『……この先どんなことがあっても、例えすべてがあなたの敵に回っても、わたしだけはあなたの味方。わたしはいつもあなたのことを思っているわ』 『……………』 突然始まった告白に少なからず驚いて、絡めた手に力が籠もった。そのまま、立ち止まらせて香穂子の顔をのぞき込む。暗がりの中では細かなところまでは分からなかった。つやつやとひかる飴色の瞳と、ひっそり浮かべられた微笑みは、高校時代、何かにつけて八つ当たり、直後ばつの悪さに渋面を作る柚木に対しての彼女を彷彿とさせた。 『どうした』 『昔、ここで結婚式を見ましたね』 『…ああ』 百合の花はきっと香穂子の呉藍の髪によく合うだろう、と挿してやったのだ。この手で。 『そのときわたしは自分のことばかりで。あなたに祝福すべき言葉を何も持たなかった』 なんて我が儘、とらしくもない自嘲をする。 『だから言っておきたかったんです』 『俺の返事はあのときと変わらないよ。お前が倖せであるように、それだけを願っている』 あの日、花が飾られていたあたりをほどいた手でかきやって遣ると、露わになった白皙の面は、静かに瞳を閉じた。腰を折り、ひかりを隠した目蓋、唇へと口づける。外気に当てられた為か、そこはやわらかく、冷たくあった。戦慄く唇を触れあわせ、柚木のコートに襟に取り縋ってまで香穂子は必死に応えてくる。物慣れない風情が愛おしく、普段は蓋をしようと心掛けている嗜虐心がふつふつと沸き上がった。 重ねたキスの合間に、忘れないで、と彼女はもう一度言った。 「梓馬さん」 香穂子はついぞその言い方で柚木を呼びはしなかった。おかしなところで切り替えの悪い女だったのだ。 運動嫌いの柚木が(おそらく)新記録の早さで玄関まで走り、車庫で車のモップ掛けをしていた運転手を急き立てて彼女の部屋まで飛ばして見たものは、かつて彼女の部屋であった場所だった。アパートのドアノブに引っかけられた公共料金の申込書を目にして、柚木の脳裏は白く焼き切れたようだった。祖母は遣る、と決めたら徹底的に遣り遂げる人間だった。 受かったばかりであった音大の学籍は休学扱いになっており、それ以上詳しいことは個人情報だからと教えて貰えない。かつてのコンクール・メンバーを当たっても、彼女の行く先は杳として知れない。消しゴムか何かで奇麗さっぱり消してしまったみたいに、日野香穂子の存在はその日を境に忽然と失われていた。 高校二年生までの柚木であれば、きっと諦めて諾々と祖母(というよりは、おそらく家)の決定に従っていただろう。それが自分のつまらない人生だと思っていたし、実際そこまで執着できる相手に出逢わなかったからだ。 けれど、十八の年、あまりにも凝縮された、コペルニクス的転回を誇る一年間を過ごした後、柚木は相当に諦めの悪い男として生まれ変わっていた。彼女が見つかるまでは帰らない、と翌日の夕食の場で宣戦布告し、怒る父、泣き崩れる母、またしても無表情の祖母と、騒ぐ兄妹を置いて家出。とりあえず火原の家に転がり込んで、一週間以内に部屋を借り、興信所を雇って香穂子の行方を捜させた。ある程度予想は出来ていたが、居を構えた途端、家人が押しかけてきた。 それからはありとあらゆる手で家へ帰れだの、香穂子のことは諦めろだの、しつこい攻勢が続いている。流石に親が危篤だと嘘を吐かれた時は、あまりのやり口に烈火の如く怒った。相も変わらず家族へ本性を隠していた御陰で、母あたりは腰を抜かしていたようだ。そうして二年はあっという間に過ぎた。 「梓馬さん、聞いているのですか」 「……梓馬さま」 珍しくも厳しく窘めてきたのは随分と耐性が付いてきたらしい母、と、二年前から柚木との婚約を待ち続けている辛抱強い婚約者候補殿である。肩口で切り揃えられた真っ直ぐな黒髪と、それに誂えたように黒曜の色をした瞳の色、およそ仕事と名の付くものを知らない奇麗な奇麗な手。何から何まで香穂子とは違う。 今日は腰のあたりで切り返しの入ったワンピースに、スクエアトゥの黒いパンプスを履いてのご登場だった。柚木が藤の色を好むと知ってから彼女はいつも紫系統の服を身に纏ってやってくる。だからワンピースの色も藤色である。紫の上、と柚木の兄は冗談めかして渾名をつけていた。お前にとっての紫の上は別に居るみたいだけれどね、と言う彼へ、柚木は首を横に振る。 作品としての源氏物語は好きだが、己が光源氏になりたいか、香穂子を紫の上にしたいか、と問われれば答えは否、だ。本当に愛した女性に火を呑ませるような所業をする男になど、そんな関係など、なりたくもない。
喫茶店の奥まった座席で、テーブルを挟み一対二で腰を下ろし、生産性のない会話を初めてかれこれ三時間ほど経過している。三時間あれば、時給千八百円のアルバイトで五千円超だ。五千円あれば一週間半は優に食いつなげる。元より自分は大食ではないからそれくらいで丁度良い、と余所事を考え、また現実逃避。 視線をも逃がした先、大きく取られた窓からは、初夏手前の陽射しの下に照らされて人や車が行き交うのが見える。正午を過ぎた街中は柚木を置いて至極穏やかに過ぎているようだった。社会人の昼休み時間は終わり、キング、クイーン、ジャック、と土地柄に似合いの愛称を持つ官公庁群の付近は随分閑散としていた。授業の空いた大学生と、何故かほいほい休める女子高生と、専業主婦(使用人付き)でもなければ、貴重な平日の午後をこうも無駄に費やせない筈だ。 「私も嫌われてしまいましたね。初めてお逢いした時の梓馬様は本当にお優しかったのに」 「あなたに特別そうした訳ではありません。誰に対しても、僕はあんなものです」 兄曰くの紫の上、が柚木を見初めたのは星奏学院OB・OG主演のコンサートであった。卒業したての柚木は声を掛けられて、火原と共に奏者として参加した。コンサートは大成功で、アンコールはアンサンブル・メンバーで懐かしい演目の再現となった。ルスランとリュドミラ。あの日の柚木が魅力的に見えたのなら、ミストレスの席に座っていたのが香穂子であったからだ。 コンサートを終えて、関係者のみが入れる筈の廊下に見慣れない少女が立っていたのは憶えている。その背後に妹が居て、ああ雅の友達か、と思った。卒業生とはいえ、柚木は一年前まで在学していたし、それなりに有名だったから、彼の妹の為に便宜を図ってくれるものが居たとしてもおかしくはない。 その少女が、紫の上だった。彼女が言う「本当にお優しかった」という自分が何を話したのかは見事に忘れている。何せ、先に行った香穂子を追うことで頭がいっぱいだったから。 「…梓馬様に好きな方がいるのは知っています。それでもわたしはあなたをお慕いしているのです」 「このまま話を続けてもいつもと同じだと思いますよ」 柚木は彼女と香穂子を頭の中で比べることに、全く罪悪感を抱いていない。遠慮なく両者を並べ、あれが違うこれが違うとけちを付けて時間を潰している。香穂子はここまで明確に好意を示しはしなかった。奥ゆかしいと言うよりも、形にすることで秘した想いが溢れだすことを、恐れているように見えた。変なところで度胸がある癖に、恋愛事に関して香穂子は恐がりだったのだ。 柚木が紫の上に対して躊躇うことがあるとすれば、彼女を遠慮なく傷付けるべきか、態度で冷たく遠ざけておくに留めるか、その二択の結論だった。この婚約者候補に罵詈雑言を投げつけ自ら嫌うよう仕向けてみようかと考えたこともある。そうして香穂子が戻ってくれば、婚約が破談になれば万々歳だが、紫の上の恋情は利用されているだけ、彼女の背後には親が居て、彼らこそが柚木と娘の結婚をひとしおに願っている。娘の方も心得たもので、 「梓馬様にどんな冷たい言葉を掛けられても、私の気持ちは変わりはしません」 と来たものだから面倒だ。 「ここまで女性に言わせるものではありませんよ、梓馬さん」 「……では母さんは、僕に、家のため、望まぬ結婚をせよと仰るのですね」 「……それは、」 祖母と違いはっきりと強いることの出来ない母の態度は、事態の長期化に一役買っていてやはり歓迎出来たものではない。結婚賛成に回れば彼女も攻撃対象となるが、母はそれなりにやさしく、強行には及ばない。但し味方でもないから、柚木と話をしても解決する案件は皆無だ。堂々巡りである。 「お二人とも、よろしいですか?僕が好きなのは彼女、だけなんです。それは今も変わらない。あなたと婚約も、結婚もするつもりはありません。家にも当分戻るつもりはない。自分の生活を支えていくだけの稼ぎの口は、ありますから」 大学のアルバイト紹介ではじめた家庭教師の職は悪くない稼ぎである。投機関係は家の圧力が掛かりやすいので控えている。流石に、家の連中も余所様の家庭にまで乗り込んでくるほど恥知らずではないらしく、安心した。 「だから今日もお話するのはここまでです。失礼します」 「いえ、……梓馬さん、お座りなさい」 鶯色の街着から伸びた手に止められ、立ち上がり掛け、やめる。 厭な予感がした。婚約話を持ちかけられた時と同じ、肺が急に狭くなったかのように、酷く苦しく感じる。 「いいですか、」 「僕に話はありません」 「わたくしにはあるのです」 母はぴしゃりと言ってのけた。 「あなたが出て行った後、…今年の四月からです。杜屋の叔父様の会社はいよいよ保たなくなって、既に資金援助が始まっています。融資は両家から出しています。あなたが将来的に婚約にするのを前提に、前倒しで行うことを呑んで頂きました」 「将来的に?」 乾いた声で鸚鵡返しに問うと、母は口を真一文字にして頷いた。 「そう、将来的に。具体的にはこの四年の間です。あなたが二十六、お嬢さんが二十三の頃合いです。悪くはない釣り合わせに思えるわ」 そして香穂子は二十四だな、と柚木は思う。彼女は早生まれだから、柚木と少しの間二歳差になるのだ。 「四年掛けて香穂子を諦めろと?」 「諦めるのではありません、忘れなさい、と」 「……それはお祖母様が仰ったのですね、母さん」 「………」 自らの立ち位置を決め兼ねている母が非情なことを言えるわけがなかった。これほど堂々としているのは、柚木の家の摂政たる祖母がそう決めたからだ。 「四年の間、私、梓馬様に尽くします。好きになって頂けるよう努力致します。梓馬様の好きなものを勉強しますわ」 黙した母を庇うように紫の上は喋り出す。髪も、装いも、香りも、あなたの好みに。状況をさておいて客観的に見分すれば彼女がうつくしいことは明白だ。こんな美少女に額ずかれて嬉しくない男はいないだろう、とも思う。 ――――――忘れないで。 「そうだ、」 ぱっと表情を明るいものにして、とても素敵なアイディアを思いついたように彼女は続けた。パフスリーブの袖までが嬉しそうに軽やかに揺れる。 「私ヴァイオリンをはじめましたの」 「――――」 「梓馬様、ヴァイオリンがお好きなのでしょう。私、大分前からマルトーの国際コンクールで優勝された方に師事して」 「やめろ」 気持ち悪い、と吐き捨てかけて、かろうじて内心に押さえ込んだ。 柚木が選んだ唯一の弦の色は、あまりにまばゆい金色をしている。その持ち主の瞳の色と同じ、どこにあっても、どれだけのひとの中に隠れていても、祝福の徴が降りたように彼には見出せる。 酷くするのは可哀想か、と迷っていた気持ちは奇麗に消し飛んでいた。言葉を掛けることも腹立たしく、柚木は顔を背けた。口を開けば彼女の唾棄すべきプランの続きを聞かされるに決まっている。悪気はない、それが何より悪い。 殺し損ねた怒気は女性二人を相当威圧してしまったらしい。母だけでなく少女も黙り込んだ。面倒だし、本当に腑が煮えくりかえっていたので柚木はフォローを一切しなかった。香穂子の、あの女の代わりを自分が出来るとでも思っているのか。 許嫁候補と連れて来られる少女たちの大抵に、かつて柚木は苛立ちと憐れみ、二つの感情を抱いていた。彼の外見や余所行きの態度に見惚れ、寄ってくる娘たち。その中から妥協で一人を選び、縁を結んで生きていく自分自身は尚の事、滑稽でしかなかった。 忘れないで。 あなたが倖せであることを、わたしもまた、祈っている。 そう願うことの、願われたことの、何がいけない? 視界の端に婚約者を称する娘を置くことすら今の柚木には耐え難く思える。深呼吸をし、今度こそ席を立とうと、その前に決定的な永訣の台詞を述べなければと再び窓の外を見る。榛色の目に、いっぱいの花が映った。 「………?」 それは物凄い量の、嵩の花だった。 大きな籠からあふれ出ているのは霞草、ライラック、カトレア、スイトピー、ストック、極楽鳥花にトルコキキョウ。硝子越しにも、花の匂いが届いてきそうな風情である。 花籠は郵便局のバイクと良く似た―――いや、全く同じの、ホンダ製MDカブに積まれていた。タンデムシートの後ろに荷台が据え付けてあって、そこに所狭しと花が咲いている。MDカブは旧郵政専用車両だから放出品でなければそうは出回らない。積み荷の内容から量っても、花屋の配達かと思われた。 運転席でハンドルを握っている女性は、小柄だがはっとする程姿勢がよく、グライダー乗りの飛行士が被るみたいなヘルメットをしている。革張りのゴーグルと、プラスチックのメットから零れている、呉藍の、 「!」 「梓馬さん!」 柚木は立ち上がった。捨て台詞に使うエネルギーはこれからの運動にすべて回そうと思った。背後から物の割れる潔い音がしたけれど、それらはすべて母と自称婚約者に押しつけることとし、ついでに勘定も任せて店から飛び出る。マナーとしては最悪だ。母はどこかで、育て方を間違えたのかもしれなかった。 信号は赤い。まだ、赤のまま。赤いバイクはとろとろと車の脇を抜けて、最前まで進もうとしている。 「――香穂子っ!」 運転手は振り返らない。ヘルメットの所為で聞こえが悪いのだろうか。それとも人間違いか。 いや、絶対に、彼女である筈だった。カツサンドを嫌いな火原、土浦と談笑する月森、柚木と仲の良い加地が世に存在しないように、自分が、彼女を見誤ることはない。 「香穂子!」 弾かれたように女性は籠越しに振り返った。ゴーグルをヘルメットの上に引っかけて、容貌が明らかになる。 二年ぶりの香穂子をもう、少女と形容することは出来なかった。 くたびれたデニムとライダージャケットを着込み、無造作に髪を一括りにしていても、彼女は匂い立つようにうつくしかった。指を抜いたグローブの、左手をつい追い掛けてしまう。その薬指には柚木がかつて贈った指輪が嵌められている筈だ。 自然に口の端が吊り上がっていく。急に駆けて心臓がばくばくと跳ねているのに、愉快で、嬉しくて仕方がない。天から降って来たのはあまりに馬鹿げた奇跡だった。祝福を希うことすら愚かと思っていた、曖昧な『御手の持ち主』とやらは、どうしたって柚木に己が存在を信じて欲しいようである。 少し痩せ、大分女らしくなった香穂子は、懐かしい表情を曝していた。ぽかん、と鳩が豆鉄砲面を食らったような顔をしている。柚木が無茶を言う度に、よくああいう面をしたものだ、と思う。 「……せ、んぱい」 思い切りブレーキを掛けてしまったらしく、ぎっ、とタイヤが摩擦音を立てた。地面に足を踏ん張って車体を止め、慌てて背後を確認している。柚木は肩で息をしながら赤いカブに駆け寄った。 「……っ、は、俺を走らせるなんて、お前だけ、だよ」 「…先輩」 瞳にはうっすらと水の膜が張っているように見える。心臓のようにリズムを刻むエンジン音に負けず、けれど途切れがちに、せんぱい、せんぱい、と。それしか言葉を知らないみたいに彼女は繰り返す。感動的な場面と言っても良さそうなのに、恋人の名すら満足に呼べない不器用さをも、柚木は愛していた。 「捜した」 「……、――はい」 手を伸ばす。手袋に包まれた手が、一瞬躊躇うようにハンドルから浮いて、それから柚木の手に絡んだ。白皙の頬にぽろり、と涙が零れる。思わず舌で舐め取ってやろうかと思ったその時、 「―――梓馬さん!」 自動ドアをこじ開ける勢いで母がまろび出てくる。先ほどまで自分が掛けていた席を見遣れば悲壮な表情で少女が立ちつくしている。窓硝子に掌をあて、まるでそうすれば柚木を此処に縫い止められると盲信しているかのように、凝とこちらを見ていた。 「…まずいな」 見下ろしたカブは二人乗りが出来る仕様だ。少なくとも道交法違反でしょっ引かれることは無さそうである。香穂子は前籠からヘルメットを掴むと柚木の胸へ押しつけた。 「被ってください。飛ばします」 意外に重いそれを受け取り、彼女と花の山の間に滑り込む。こちらは見た目通りの狭さで、生温い植物の感触と、むっとした匂いに背中が覆われた。この非常時だと言うのに意図を持った動きで、香穂子の腹に両腕を絡めると、香穂子は小さく唸り声を上げた。 「話が早くていいよ、君は」 「当たり前でしょう。逃げるんでしょう、ここから。違いますか?」 「……お前、」 それはどういう意味で言っているのか、と逆に問い返そうとする。聞いた癖に、香穂子は答えを待たない。 「言った筈よ。わたしはあなたの味方。わたしのことを忘れてもそれだけは忘れないで」 馬鹿の一つ覚えのようにまたしても彼女は言い、それは魔法の言葉の効力を持って柚木の時間を二年前へと巻き戻した。香穂子とする約束は、彼にとって破ってはならない、最も面倒な種類のものだった。いつか変わり、失い、損ねてしまうものがあるのなら、外殻を緩やかにしながら、永遠を内包するものがあっても悪くないんじゃないのか。そう錯覚させられるほどに、面倒な。 アクセルを一気に吹かしてカブは発進した。香穂子の存在を確かめるように回した腕を僅かに締める。細い肩の筋がぴり、と動き、彼女は姿勢を前へ倒した。後ろから母の泣きそうな呼び声がしたが、柚木は振り返らない事にした。花があってもなくても、きっと同じだった。 □□□ マイク・ニコルズの「卒業」は、駆け落ちした若い二人の未来を何処か翳の残る形で終わらせている。逃亡者というものは、追う者が居るからこその逃亡者であり、大概そういった話がうまくいった試しはない、と柚木は思う。猟犬は追跡の手を休めないものだ。ハッピー・エンドを迎える秘訣は逃げるのをやめること。 >>>END and to go! PR 2010/06/18(Fri) 21:18:48
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