どこにもいけない。
目下リンクゾーンにある『こつこつ』で絵の練習してます。
いつだったか、あまりにも彼は香穂子を褒めるので、ネタが尽きるまでやってみてよ、と暴言を吐いたことがある。言われた当人はにっこり微笑んで、
「よろこんで」 と、何処ぞの居酒屋店員のような返事をした。 --結果は推して知るべし、である。 ■■■カナリアと少女 事の始まりは加地葵。金茶の髪にアイドル顔、均整の取れた体つきに甘いテノールの声をもつテンションの高い男。 (「砂を吐く、って語源は貝なのかな」) ボールいっぱいにあけられた浅蜊が口をかぱぁと開ける様を思い出しながら、隣に座って彼女を讃える美辞麗句を並べる加地をぼんやりと眺めた。よくもまあ次から次へと出て来るものだ。初めは聞く度に赤面するほど恥ずかしかったのだが、最近は麻痺してしまったのか割と平然と聞き流すことができる。 「昨日講堂で演奏してたの聞いたよ。シシリエンヌ、凄くよかった」 「ありがと」 「香穂さんてどんな傾向の曲でも弾き熟しちゃうよね。僕はかなり得手不得手があるからああいうの、うらやましい」 「カメレオン」 「え?」 「柚木先輩に言われたことあるよ。カメレオンみたいだな、って。因みに本人曰く褒め言葉」 「…センス、ないね」 我が事のように渋面を作った彼へ首を横に振って見せた。 実際柚木の評は毀誉褒貶半々であるからにして、例えセンスが多少なくとも問題ないのである。その小癪に小器用なところが先のコンサートで役立ったのだから善しとするか、と彼らしい照れ隠しも付いていた。 「済いを願う人の数だけ手をもつ神様もいる。君は無数の音楽の数だけ弾く手を備えるミューズみたいだ」 「………」 加地はほぼ息継ぎなく、考えた素振りも見せず無駄にきらきらした笑顔で言ってのけた。呆然と見つめる。 わたしは千手観音の変種、ギリシア版かよと思い、いや日本を脱出した時点で既に変種なのかとげんなりもした。柚木に対抗意識があって言ったわけではない、ことはわかる。いついかなるとき、病めるときも健やかなるときも加地は多分この調子。 「…ん、どしたの?」 「ほんとうによく語彙が尽きないなぁと思って」 「君を讃える言葉なら幾らでも出てくるよ。僕にとっては君への賛辞はもうひとつの音楽だから」 本当だ、また、言ってる。一日に何回褒めちぎられたか数えてみようかなどと戴けない考えが過ぎったが、止めた。加地の言が本当ならば無限に柵を超える羊を数えるようなものだ。 「でも、もし」 唐突にがらりと低くなった声音に顔をあげると、複雑そうな彼と目が合う。本人も揶喩するくらい平生は軽目に見られがちな容貌も、苦悩や迷いといった、ネガティブな要素が少し混ざるだけで随分に印象が変わる。最後の最後で狼少年にならなくて済むタイプだ。格段に信憑性が増す。 「ちょっとでも君に不快な思いをさせているなら、やめる」 「…えと、不快っていうか」 どう説明すれば真意を理解してもらえるだろう。兎角香穂子のこととなると加地は気を回しすぎる。ちらりと見上げれば、若干気弱な笑みを返された。それきり、頬杖をついて教壇の方へ顔を背けてしまう。 黒板は綺麗に清められて、今日の日付の下に二人の名前が並んでいる。窓は閉めた、日誌も書いた。クラスメイトは全員帰ったか部活動かで出払っている。残る理由は失われて数十分経過している筈なのに、時間の感覚もまた、麻痺して失くなっている。 --彼のとなり。 「ボキャブラリがたくさんあるなあ、って。ただそれだけ。やな思いしたことはないよ」 「ただそれだけ、か…」 「え、違くて!…違くないけど、」 加地は眉尻を下げて、か細い声で言う。 「いや、いいんだ。僕よく軽そうだとか言われてたし。君にそう思われてないことは分かってるつもり」 だからね、 「嘘だとか、お追従じゃないってことも信じて。僕が君に対して言うことはいつも真実だし、そうありたいと思ってる」 「加地君自身のことは時々違うみたいだけど」 「……」 「わたしはまだ認めてないんだから」 彼の音楽についての話となれば二人の会話は平行線になってしまう。君の方が、あなたの方が、まだ時間はあるじゃない、いやもう諦め時なんだ-等々。香穂子の語彙力も中々捨てたものではなさそうだ。加地の音楽を護るための言葉なら幾らだって生み出せる。 「…雨だ」 「え?」 加地は振り返り、一時置いて首を傾げた。香穂子の背の向こう、張られた窓硝子の景色は夕映えである筈。背中に目がなくとも、教室を赤に橙に染めるひかりで分かる。 「晴れてるよ」 「言葉のはなし」 もしかしたら麻痺したわけではないのかもしれない。慣れたわけでも。 「日本語の『雨』の表現ってたくさんあるって言うじゃない」 「風土柄、雨はよく降るしね。それに昔人は今の僕らが考えつかないくらい自然に親しんでいただろうから」 「それだけじゃなくてね、きっともっと簡単なこと。ただ好きだ、ってこと」 つっかい棒がかくん、と外れたかのように、少年は頭を落とした。丸く見瞠られた瞳は日本人らしからぬ色味をしている。皐月、水無月、雨に濡れた碧い葉を思い出す。 (「…好きだって、ことなんだ」) 「大切にしているものには幾らでも言葉を尽くせるから」 「………」 飾りや表現をどんなに変えたところでそのもの、核の感情がぶれていない。だから、受け止められる。雨、好き、あなたの奏でる音楽、 「だいすき」 「……、っ」 ぽろりと零れた台詞に、加地は顔全面を掌で覆った。指の間から見える膚や髪から覗く耳の先がほんのりと紅い。 「か、ほさんの一言の方がよっぽど強烈」 僕がどんなに騒いでも、とかイデアどうとか、塞いだ手が加地の声を曇らせる。 なに、はっきり言ってよ、と腕を掴むと逆に彼の方へ引きずり込まれた。 「自覚、してね」 「だからなに」 「してなかったらあまりに卑怯だ。僕だけ。僕ばかり」 「…多分してると思う」 「……それが怪しいんだよ…ああなんだろうなもうこれは」 後ろに恐々と腕が回されていく。覆いを外してなお俯き表情を隠そうとする彼を、こちらは視線を過たずにひたすら待った。言葉よりも雄弁な双眸、それから体温。 「…好きなのは、雨、じゃないよね」 「あめもすき」 「………」 額に触れる加地の喉首がくるると鳴った。 PR 2009/06/05(Fri) 17:23:42
|